【刀】 種別: 刀
登録: 東京都 昭和35年2月18日
刃長: 71.6cm
反り: 2.0cm
元幅: 31.3mm
元重: 7.7mm
地鉄 地肌は細かくよく詰み、疎見すると無地風にも見えます。
刃文 互の目丁子乱れ。
茎 うぶ茎在銘
銘文(表)川部儀八郎藤原正秀(花押)
銘文(裏)文化二年八月日
目くぎ穴 1
【拵え】 鍔は時代があるようですが柄巻きは新しいもののようです。
ガタツキも無く良い拵えです。
無審査ではありますが、目釘穴も1個だけのうぶ茎に銘と裏年期が切られています。
水心子正秀は新々刀最上作刀工であり、重要刀剣に指定されているものもあります。
また、あの勝海舟が愛刀としていたことでも有名です。
寛延三年(1750年)出羽(山形県)赤湯地区出身で武州下原鍛冶吉英(かじよしひで)に師事。
初銘を鈴木三郎藤原宅英、のち英国と改めています。
安永三年(1774年)に江戸に出府、
秋元家のお抱え刀工となったのを機に川部儀八郎正秀と改名し、水心子と号しました。
文政八年(1825年)七十六歳で没。
初期には大乱刃(みだれば)を焼き、
つづいて津田助広写しの濤瀾(とうらん)刃など大坂新刀の助広・真改を写していました。
壮年期は相州伝を写していたのですが、
元々学識が高くその当時に高まっていた国学の復興に伴う復古思想の勃興(ぼっこう)に影響され、
尚かつ刀剣実用論から焼の深いものは折れやすいという欠点を改めるべく、
「日本刀はすべからく鎌倉・南北朝の古(いにしえ)に復すべし」とする復古新刀論を唱え、
以後晩年に至るまで主に備前伝を焼きました。
正秀は非常に理論に優れ門弟の育成もうまく、優れた弟子を幾多も輩出させ、
彼の影響は大きく、新々刀の祖とまでいわれています。
正秀の死後もその弟子達により復古思想は受け継がれ、
幕末に至っているといっても過言ではないといわれています。
従って新々刀の祖とも言われ、さらには現代刀を定義付けるとすれば、
正秀の復古新刀論の亜流であると言う人まで居るようです。
水心子正秀は初期の頃に大坂新刀の影響を強く受けており、
文化頃より復古思想に根ざした備前伝風の作柄となります。
従って、当時の刀工の作柄も文化・文政時代までは大坂新刀風のものが主流で、
復古思想が完全に定着する天保頃から作風が大きく変化しました。 |
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